このページでは、大塚博堂の知られざる話、今だから言える話をこっそりお教えいたします。


実は、シンガーソングライター大塚博堂としてデビューする前、「大塚たけし」の芸名でレコードを2枚発売しています。

「大塚たけし」でのデビュー曲
A面 「自由に生きてほしい」
          阿久 悠 作詞、井上忠夫 作曲
          青木 望 編曲

B面 「薔薇のトゲ」
          千家和也 作詞、クニ・河内 作曲
          クニ・河内 編曲

1972.9 発売元:ワーナー・パイオニア

当時、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」や、上条恒彦の「出発の歌」など、声を張り上げて歌う歌い方が流行っていました。叔父の歌い方も、その流れに沿っていて、大塚博堂作品からは想像できない歌声です。また、この曲でTV出演したのを覚えています。堺正章のバラエティー番組「ハッチャキマチャアキ」でした。


「大塚たけし」の2枚目レコード
フジテレビ「トリプル捜査線」主題歌

A面 「風は知らない」
          山口あかり 作詞、平尾昌晃 作曲
          竜崎孝路 編曲

B面 「愛は燃えつきて」
          山上路夫 作詞、クニ・河内 作曲
          クニ・河内 編曲

      

1973.8 発売元:ワーナー・パイオニア


一度だけ、このトリプル捜査線に叔父が出演したのを覚えています。クラブ歌手の役で、何もセリフがなく、ただクラブで歌を歌っているシーンが数秒流れただけでした。しかし、親戚一同大騒ぎしたのを今でも覚えています。



<大塚博堂が歌ったCMソング>                             

・ヒットした「春は横顔」は、マックスファクター81年春のキャンペーンソング。

・「旅でもしょうか」と「センチメンタルな私小説」は、NHKのイメージソングに起用される。

・「青春は最後のおとぎ話」は、大原麗子、平幹二朗共演のドラマ「聖女房」の主題歌。

・ブルボンのお菓子「ホワイトロリータ」のCMソング。「ブルボンホワイトロリ〜タ〜」

・かゆみ止め「ムヒ」のCMソング。「君に君に付けてあげよう〜君に君に付けてあげよう〜」

・マンズワインCMソング。市川染五郎(現、松本幸四郎)夫婦のバックに流れていた。

私の覚えているものは以上です。他にも多数あったみたいで、事務所に内緒でCMソングを歌っていた為、大塚博堂とすぐに分からないよな歌い方や、歌を二重に重ねたりしていたそうです。これは、叔父から飲んでいるときに聞いた話です。


<二つのめぐり逢い紡いで>

大塚博堂の名曲「めぐり逢い紡いで」に二つのアレンジがあることをご存知ですか?
布施明さんとの競作は有名ですが、大塚博堂自身のレコーディングした歌で2パターンあります。
初期にレコーディングした「めぐり逢い紡いで」は、あかのたちお氏の編曲で最後のサビ「めぐり逢い紡いで・・・・」をリフレインします。
後期にレコーディングしたシングルバージョン「めぐり逢い紡いで」は、林哲司氏編曲で、サビのリフレインがありません。曲調としては、少し明るく若々しいアレンジに仕上がっています。
私は、シングルバージョンの「めぐり逢い紡いで」のほうが好きですが、皆さんはどうですか?是非聞き比べてみてください。

「シングルス」には、林哲司氏編曲の
「めぐり逢い紡いで」が収録されています。


<大塚博堂ドラマ出演 桃井かおりの元恋人役>

1979年に日本TVで放映されていた人気ドラマ「ちょっとマイウェイ」に一度、桃井かおりの元恋人役で出演したことがあります。
このドラマは、毎週土曜日21:00から放送されていました。ドラマの舞台は、代官山のフランス料理レストラン。店をきりもりするのが、なつみ役の桃井かおり。ある日突然、店のピアノから聞き覚えのあるジャズピアノのナンバーが聞こえてくる。そう、ニューヨーク帰りのジャズピアニストで、なつみの元恋人、藤倉信男(大塚博堂)である。信男(大塚博堂)は、なつみ(桃井かおり)にもう一度やり直さないかと言う。なつみの心は揺れ動くのだが、かつこ役の研ナオコのよこやりで信男(大塚博堂)の願いもかなわず、一人去っていくというストーリー。
他の出演者は、長女役の八千草薫・次女役の結城美栄子・コック役の緒方拳、そして神田正輝・峰竜太・岸本加世子など、そうそうたるメンバーだった。ドラマの収録時、緊張している叔父に桃井かおりさんが、気持ちが落ち着くようにいろいろとアドバイスをしてくれたそうです。叔父は、これを機会にいろんなドラマにも出演してみようかな?と、私に言っていたのですが、残念ながらこれが最後のドラマ出演となりました。


<ハートフルな男が独り・・・・>
フィリップスレコードが大塚博堂のデビューを前に、マスコミ関係者に配ったメッセージを紹介します。〜

大塚博堂という素晴らしい実力派の新人を紹介させていただきます。
彼は、自分でメロディーを作り、その世界を自ら歌いあげるシンガーソングライターです。人生の年輪があります。ハートフルなメロディーと抜群の歌唱力で愛を謳いあげます。やさしさと温かさに包まれた男のロマンを通して、青春と人生を語りかけます。そこには、今まで誰も足を踏み入れることのなかった新しい世界があります。32歳のシンガーソングライターをあえてデビューさせることに、私たちスタッフは、大きな意義を感じます。今、世の中が失いかけているものを大塚博堂の歌で少しでも食いとめようと思うのです。一人でも多くの人に彼の歌を聴いてもらいたいと切に思います。

<プロフィール>
本名・・・・・・・・・・・大塚博堂(ひろたか)
生年月日・・・・・・・昭和19年3月22日
出身地・・・・・・・・・大分県別府市
最終学歴・・・・・・・東洋音楽大学声楽科中退
弾ける楽器・・・・・ ギター、ピアノ、ドラム
尊敬する歌手・・・・ジョニー・ハートマン、ジョルジュ・ムスタキ
歌の傾向・・・・・・・愛を語るもの
レパートリー・・・・・数えられない位
趣味・・・・・・・・・・ 酒に飲まれること
好きな食べ物・・・ うめぼし
所属・・・・・・・・・・ 渡辺プロダクション
発売元・・・・・・・・ 日本フォノグラム株式会社

以上が宣伝用のパンフレットに記載されていた全文です。当時、32歳のシンガーをデビューさせることは、音楽業界でも異例だったようです。それだけ大塚博堂に対する思い入れの深さが感じ取れます。今の音楽業界に、これほどの情熱を持った人たちがどれほどいるのでしょうか?ただ売れればいい、サラリーマン化してしまった業界は、小中高生用の音楽ばかり作っているのが現状です。音楽に携わる人間として、自信と誇りと拘りを持っていただきたいと思います。音楽は、人の人生を変えるほど意義大きなものなのです。(大塚 郷)


<唇よ熱く君を語れ・・・・>

「唇よ熱く君を語れ」これは、カネボウ化粧品のキャンペーンソングです。渡辺真知子さんが歌っていたのを覚えているでしょうか?実は、もしかすると大塚博堂の歌が起用されていたかも知れないのです。このキャンペーンのため、「唇よ熱く君を語れ」というタイトルの曲をいろんなアーテストが持ちより、コンペ方式でキャンペーンソングを選んだそうです。その最終選考の2曲に大塚博堂の作品と渡辺真知子の作品が残り、結局、渡辺真知子さんの作品が選ばれたというエピソードです。その時の叔父は、大変悔しがっていたのを覚えています。


<名曲 ”めぐり逢い紡いで”競作秘話>

大塚博堂を代表する名曲「めぐり逢い紡いで」は、布施明さんの競作でも有名です。NHKの紅白歌合戦で、布施明さんが「めぐり逢い紡いで」を熱唱したのを覚えています。実はこの競作にも秘話があります。渡辺プロダクションで、この「めぐり逢い紡いで」を自分の持ち歌にしたいと名乗り出たのが布施明さんと森進一さんでした。最終的には事務所の判断で、布施明さんが歌うようになったのですが、森進一さんもこの曲を愛してくださっており、今でもディナーショーなどで「めぐり逢い紡いで」を歌われているそうです。是非、TVで森進一流「めぐり逢い紡いで」の熱唱を見たいものです。よろしくお願いします。


<”旅でもしようか”誕生秘話>

軽快なリズムを刻む「旅でもしようか」、今や旅番組のテーマソング的存在になりました。この曲にも秘話があります。「旅でもしようか」は、当初「太陽にほえろ」の殿下こと小野寺昭さんの競作でもありました。その後、TVで頻繁に曲が流れ出したのは、昭和55年秋、NHKのFMイメージソングとしてNHK総合TVでした。田園風景の中をSL列車が走る。やがて一人の青年が山の小さな駅のホームに降り立つ。そんなシーンをバックに大塚博堂の「旅でもしようか」が流れるのです。実は、昭和53年年末恒例のNHK紅白歌合戦で、布施明が歌った「めぐり逢い紡いで」が、大塚博堂の作品であることを知ったNHKディレクター氏が、早々レコード店に飛んで行き、LP盤の中から「旅でもしようか」をイメージソングとして採り上げたらしいのです。実はもう一つ、この曲には秘話があります。歌詞の二番で、「銀色のさざなみ」とありますが、作詞家の藤公之介さんの書いた詞は「金色のさざなみ」でした。しかし、博堂は、「金色では歌いにくく、響きがよくない」と藤さんにお願いして、「銀色のさざなみ」に変更したそうです。大塚博堂の歌への拘りと感性の豊かさが伺えますね。


<もう一つのペンネーム「ジョルジュ・滝」>

大塚博堂のもう一つのペンネームは、「ジョルジュ・滝」です。この名前の由来は、叔父の好きだったシャンソン歌手ジョルジュ・ムスタキをもじったものです。作品としては、小野寺昭さんのアルバムに「街」「水彩画の少女」「旅に出ませんか」「やがてむらさき」を提供しています。また、名古屋博堂倶楽部の木本さんの情報では、「悪口」歌:佐藤光政、作詞は藤公之介(シングルA面)にも「ジョルジュ・滝」で作曲しているそうです。他の歌手の方にも「ジョルジュ・滝」の名で曲を提供しているかも知れません、ご存知の方がいらっしゃいましたら情報をお待ちしております。。ところで、1999年にジョルジュ・ムスタキさんにお会いする機会があり、叔父の話をしました。大塚博堂のCDをお渡ししたところ、博堂へのメッセージとサインをいただきました。今そのサインは叔父の写真の傍に飾っております。



<アルバム「過ぎ去りし想い出は」宣伝用チラシ>

セカンドアルバム「過ぎ去りし想い出は」完成に伴い、マスコミ・音楽関係者に配った宣伝用パンフレットを紹介します。
やすらぎの音って・・・・・・・・。
哀愁をおびた美しい旋律にのせて静かに語りかける博堂の唄には、めぐり逢うこと・・・、語り合うこと・・・の”やすらぎ”の世界がある

大塚博堂こそ77年開花する最短距離にいるアーティスト。

各方面の多大な御協力のお陰で、大塚博堂のファーストアルバム「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」は着実にセールスを伸ばし、3万枚を越えて毎月の売上も軌道に乗った感があります。昨年は、博堂自身も横浜音楽祭新人賞に選ばれるなど、確実な評価を与えられてきています。日本フォノグラムでは、大塚博堂こそ、ひさびさに音楽界に登場した「ホンモノの歌い手」として、また77年度開花する最短距離にいるアーティストとして全社をあげて、ヒット歌手に育て上げたい所存です。皆様の暖かい御支援をどうぞ宜しくお願い申し上げます。   (日本フォノグラム 文芸部一同)

博堂、新作シングル、アルバムの特徴
”多面性を秘めた歌唱力を持つ本物の歌い手”と評価されるだけあって、何と言ってもアルバムの最大の魅力は、博堂ならではの感動的歌唱力でしょう。それに加え、前作「ダスティン・ホフマンになれなかったよ」が、恋愛をテーマにしたものばかりだったが、今回は”旅情””想い出””郷愁”などという様々な感情をテーマに取り上げ”博堂タッチ”を余すところなく描いています。作詞も前作の藤公之介はじめ、博堂の仲間たちが参加。作曲は全曲大塚博堂。そして編曲に森岡賢一郎。「弟よ」のアレンジャー、あかのたちお。そして新鋭、佐藤準らが盛り上げております。博堂の世界は旋律にますます華麗さを加え、ヨーロピアンムードを漂わせながら不思議な魅力をもって迫ってきます。そして聴き手との間に、丁度ジョルジュ・ムスタキを思わせるような独特の「やすらぎのある世界」をつくりはじめます。  (日本フォノグラム(株)文芸部担当)


<アルバム「感傷」制作秘話>

大塚博堂は、古巣のレコード会社フォノグラムから東芝EMIへ移籍し、第1弾のアルバム「感傷」を発表した。実は、これが叔父の最後のアルバムとなってしまったのです。この「感傷」発表に伴い、あるインタビュー記事がありますので、1部抜粋して紹介します。

博堂さんにアルバム「感傷」について話を聞くと、即座に、「今度のアルバムは明るくなったでしょう」と返事が返ってきた。どうも”明るくなった”キッカケを作ってくれたのは、作詞家の阿久悠さんらしい。「阿久悠さんが全部詞を書いてくれて、僕が作曲をしていくうちに、どういうわけか、どんどん明るくなってきたんです。自分でもおかしいなと思うくらいに。それはやはり詞の内容にあまりめめしさがなくて、どうしてもマイナーというよりもメジャーという雰囲気になってきて、自分では今までとあまり変わっていないと思うけれども、ただ表現のしかたが少し明るくなったかな。とにかく、シンプルで、誰もが口づさめる大きなメロディーを作ろうとは思っていたんです。」そしてこの「感傷」の制作意図について、阿久悠さんとのはじめての打合せで、”センチメンタル”をテーマにしようと、そしてタイトルもズバリ!「感傷」という、それもいままでの感傷とはひと味違った、大きくとらえたものにしてみようということになった。「今の人って、わりと、失恋してもあまりうじうじと泣いている人って少ないじゃないですか。すぐ涙を拭いてスッと歩き出す人が多いんじゃないかと。だから、いままでのセンチメンタルとはちょっと違った、あまり、めめしさのない感傷といったものをいま描いてみようではないか、ということになった。」このセンチメンタルの見直しが、博堂の”明るさ”を引き出したとも言える。

そして最後に叔父は、今後の抱負を語っている。
「今やって見たいのは、小編成でピアノを使って、小ホールで、すぐ目の前に人が聴いていて、かってのライブハウスのように一緒にお話しするようなスタイルで、全国すみずみでやりたい。そして、ぼくの歌が1番伝わりやすいのは、アコースティックでやることです。これからも、詩、ことばを大事にしていきたいですね。」

このインタビュー(昭和56年4月8日)の一ヵ月後、叔父は帰らぬ人となった・・・・・・・。


    A面                     B面
   ・春は横顔                 ・私の愛は間違いじゃない
   ・トマトジュースで追いかえすのかい  ・ミセス・ホワイトに伝えて
   ・処女よ(おとめよ)            ・たそがれ
   ・林檎の皮                 ・センチメンタルな私小説
   ・最初の微笑                ・ムキになるなよお嬢さん



  (大塚博堂直筆イラスト・文字)


<九州NO.1 JAZZシンガー> 

叔父の歌は、「博堂節」と言われる独自の音楽路線を築きましたが、実はいろんな音楽の影響を受けております。特に、JAZZ・シャンソンからの影響は大きかったようです。博堂の尊敬するシンガーは、JAZZでは「ジョニーハートマン」、シャンソンでは「ジョルジュムスタキ」です。叔父が大塚博堂としてデビューする前、九州の福岡(博多)でJAZZシンガーとして活躍していました。博堂が音楽大学を中退した後、地元の別府や大分でJAZZなどを歌っていました。しかし、昭和42年23歳の時に、父の死がきっかけとなって博多に進出したわけです。博多では、東中洲のクラブ「絹」、西中洲のクラブ「長島」などで歌い、和製ジョニーハートマンを思わせる、抜群の歌唱力で一躍有名になりました。当時、九州NO.1のJAZZシンガーと言われるようになり、その噂を聞きつけた渡辺プロダクションからスカウトされたのです。当時、博多では、男性NO.1ボーカルは大塚博堂、女性NO.1ボーカルは高橋真梨子と言われていました。俳優の田中健さんもデビュー前、よく叔父の歌を聞きに来ていたと聞いています。その頃の時代を振り返り、叔父はこんなことを言っています。「当時、周りにはジャズが好きな人がたくさんいて、最高に勉強になった。歌を学んだのは博多です。」と。大塚博堂の音楽の原点は、九州、博多にあると言ってよいでしょう。叔父にとって、私にとって、博多は忘れられない町なのです。


<あめ、しろ、ある!>

私の父(博堂の長兄、6人兄弟の長男と末っ子博堂の年の差が兄弟なのに21歳はなれています。)から聞いた話です。博堂がまだ1歳10ヶ月ぐらいの頃。(昭和20年の1月か2月頃)戦地から戻ってきた私の父が博堂の子守りをしていたそうです。やっと少し言葉が言えるようになった頃、外に雪が降っていたそうです。博堂は、生まれて初めて雪を見て、「あめ、しろ、ある!」と言ったそうです。白い雨が外に降っている。1歳10ヶ月の博堂には衝撃的体験だったのでしょう。そして、感性の素晴らしさは、もうこの頃から芽生えていたのです。